★高円寺純情商店街。カズオ・イシグロ。グレーヴィチ。이십삼.veintitrés. 

608~633

●タワマンの郵便配達人。
633.2020年10月某日 とあるタワマン一階にひとつ目のインターホンがある。家人の応対を待っているとき、郵便配達員がきた。居住者のあけたドアを、キャスターをおして入っていった。このときわたしを見ていた。
 JPの作業服である。42くらい。その年令で配達夫というわけである。各部屋へのふたつ目のインターホンを押して家人からの反応を待っていた。
 わたしはこの男を待った。体をほかにむけていた。男は一件がすむと、二件目の部屋番号を押した。
 わたしは待たされた。この男は自動ドア脇においてあるキャスターのところへいった。それでわたしはインターホンへちかづいた。部屋番号を押す。
 ううっ。
 その男がわたしに口を鳴らした。いちいちそうやった。まだ三件目もあってわたしを攻撃したということであった。性根が腐っている。
 ドアの先へ入ったあと、この男も入ってきた。
 郵便局員の何十パーセントかは非正規労働者だというから、この男もそんなうちのひとりなのかもしれない。ならば日頃から不満を鬱積させていよう。配達。これをするのに知力はいらない。
 この男の乗りこんだエレベーターには乗らず、次のを待った。

●日曜の女子大生?ATMコーナー。三菱UFJ銀行中野支店。
632.2020年10/18 三菱UFJ銀行中野支店へいくとき、歩道で女に抜かれた。女は長いものを手に小走りであり、先を急いでいるようだった。
 当該銀行に入った。ATMのひとつおきに人がいた。となりあわないところがあいたのでそこをつかうことにした。ひとつおいた左があき、ひとつおいた右をあの女21?がつかっていた。背丈よりも高いなぎなたか何かを手にしている。

 いま女は体をはすにし、わたしを見ているふうだ。
 女は先におわってもでていかない。出入口の棚の前にいた。金融パンフレットをとってはもどしている。時間かせぎだ。わたしを先にいかせるつもりだと踏んだ。
 この女より先に歩道にでた。ミネドラッグのところで男72?が南からきており、ごほっとうしろからこの男に口中音をとばされた。間髪を入れず、うわぁーと叫喚の声をあげることができた。慣れたもんだ。
 中野駅南口の改札を入っていった。左脇をあのなぎなた?女がまたも小走りになってわたしを追いぬいた。急いでいたはずなのにわたしをつけていたか。またこんな女がいた。紺色のスカートをはいていた。ほぼ短パンふうの、ひらひらの襞のついたものだ。腰回りに切れ目のないワンピースふう。髪はショート。大学のなぎなた部員か。
 ずーっとこっち見てた。
 その後ろ姿にわたしはいってやった。小声で、届かなかったか。カエルの面に何とかか。

●連発。ごほっ。中野駅へ。ル・ロワ・ラデュリ。
631.2020年11/18 ごほっ。うしろから口中音がとんできた。物咎めする音だ。女である。わたしのうしろ姿を見つづけて犬のように吠えた。最前この細道にまがりこんだとき、このちかくの家の女がでてくる気配があったからその家の女がやったにちがいない。わたしは右手を頭上ちかくにかかげ、ぱーっ〔ばーか〕とやってやった。
 ごほっ。
 またとんできた。目にみえる人に敵愾心を抱くことでしか存在を感じられない。そんな女がまたいた。ひまな女だ。我相まみれだ。50代か60代か。
 数分後。中野駅への商店街において、男23?がごほごほっとやった。そうして首をわたしへとまわした。ちかづいてくるなという意味だ。わたしはそんな意思はこれっぽっちももっていなかった。別の男24?がそっち側の三叉路からでてきてわたしにむかってきており、わたしはそれを避けたにすぎなかった。またこんな男らがいた。高卒。まちがいない。加藤諦三のいう「人生に意味を感じない」男だ。意味のもとに生きていない。存在力よえー(よわーい)。
 ル・ロワ・ラデュリは『モンタイユー』のなかで次のように書いた。ここでいう彼とは、ギヨーム・フォールという名の人物、モンタイユーの牧羊家兼農家である。

 彼自身の言によれば、彼は「二つの宗教」(ローマとアルビジョアの)で救われることができると信じているのだし、しかも他方では依然として、「非キリスト教的」な、どうかすると「前キリスト教的」な民俗的心性の持主のままである・・・・・・

 現代の視点から、信仰がふたつあるのはばかげていると断じるのは軽々にすぎる。八百年ほども前のフランスでのことである。すくなくとも心のあり方は、わたしが味わうことになった人たちのそれとは比倫に絶し、硬直化していない。

●女がホームでベンチにすわっている。
630.2020年10/23 駅のホームで女48くらいがベンチにすわっている。身を乗りだすようにしてわたしをずーっと見つづけている。わたしは動いた。この女のうしろ側へまわっていこうとしているとき、この女はスマホで通話しながらわたしへと首をめぐらしつづけていた。わたしが掌でパーとやってやると、まばたきをした。歩きつつ、またパーとやってやると、またもまばたきをした。
 くそったれ女。
 あくまでも人を見ることによって自己の存在をたしかめている。もっともこんな女に比類のない自己などというものはない。「特個的能知者」とは対極の有象無象のひとり、群盲のひとりである。

●女が顔をむける。セブンイレブン中野桃園店。ル・ロワ・ラデュリ。
629.2020年10/25 セブンイレブン中野桃園店をすぎた。中野駅へと三叉路をまがりこんだ。まがらずにいくなら男62?のあとをいくことになるからである。女28?がぷいっと顔をそむけた。まがりこむわたしをじーっと見ていたあとの心的蛮行である。わたしは反転した。もしもまがらなかったときのほうの道をすすんだ。あの男とは離れていた。高卒女がまたいた。心的世界が単色なのにちがいない。
 ル・ロワ・ラデュリが異端審問記録から掘りあげたように中世フランス、モンタイユーのひとたちの一部には、霊魂が救われるようにと願ってカトリックカタリ派の二重信仰に身をゆだねる人がいた。ローマ教会教義と異端カタリ派教説との境界を、同一人物がどちら側からも踏みこえることができた。これとはうってかわって、さきの女には硬直性があるばかりなのだろう。

●男子高校生のごほっ。
628.2020年8/28 中央総武線各停。水道橋から男子高校生が乗りこんだ。制服姿である。一年生か二年生か。この男は、すわっているわたしの真ん前に立った。スマホを見ながらも顔をずらしてはわたしを観察していた。
 ごほっ。
 そんなふうにこの高校生がマスク越しに口を鳴らした。わたしの顔のごくちかく、しかも真ん前である。マスクをかけていても眼下のわたしにしぶきをとばさんばかりであった。
 わたしは自駅のお茶の水で席をたった。車両をかえた。

●阿佐ヶ谷パールセンター。コンビニ店員。
627.2020年8月某日 阿佐ヶ谷パールセンターにセブンイレブンがある。杉並阿佐ヶ谷南一丁目店である。もらったレシートにそうある。時刻の印字されたものだ。
 昼ごはんとして食べるものを買った。Suicaのチャージをしておこうと思いたち、ふたたびおなじレジについた。
 ううっ。
 横のレジにいる店員男24?が口を鳴らした。わたしが顔と目をむけると、男は巧みに目をそらした。無関係をよそおった。高卒バイト要員にみえた。
 この男が清算をしているのは、女48?が買おうとしているものだ。女は体をレジにたいしてななめにし、わたしを視野にいれていた。人を見ないではいられない性向の女がまたいた。

高円寺純情商店街カズオ・イシグロ。グレーヴィチ。
626.2020年8/22 三菱UFJ銀行をでた。セブンイレブンの角を100時間カレーのある道へとまがりこむ。そのカレー店がすいていれば入ろうという腹づもりである。やや遅れて、女男女という三人連れ――いずれも18くらい――がセブンのほうからまがりこんできた。わたしはこの三人にうしろから付かれるかっこうになった。
 ううっ。
 だれかが強く鋭くホイッスルのように口を鳴らした。吹き矢を射こむかのようにもきこえた。じゃまだ、どけ。そんな謂だ。
 歩くのをやめた。うしろへもどった。女男女がならんできている。その男が発信源かとみえた。だが、この男は三人の話の輪のなかにいる。わたしに目線をくれていない。ということは、この三人のすぐあとにつづいている男46?が口をとがらせたということか。この三人にたいしてか。わたしにか。
 カズオ・イシグロは『日の名残り』の終局において人間的温かみを描いた。これとは対極のものをこととする男だ。人に烙印をおす。人の自由を伐りたおす。そういう地平においてのみ生きているのだろう。
 同日。セブンイレブン高円寺駅前店。買ったものをいれたレジ袋をリュックにいれようとふたたび同店に入りこんだ。いやな予感はあった。すぐそこの野菜ジュース等々の棚の前に男65?がいるからだ。この男には、何かを買うというそぶりがまったくなかった。
 それでもコピー機の前で作業を始めた。その男がふりかえった。こちらに体をむけた。わたしを見ている。やっぱりだ。
 ただちに店をでた。外で作業をする。ガラス越しにその男がまだいるのがみえた。何のためにそこにいるのか。またこんな男がいた。
 高円寺駅東にファミマがある。あまりに暑かった。氷菓子を買おうと、OKストアから一本奥側にある道をいく。人はあまり通らない。男43?が道のまんなかを歩いてきた。スマホを見つつ、わたしにむかって歩いてきた。結句この男はわたしをまったく避けなかった。至近距離ですれちがおうとむかってきたのである。またこんな男がいた。
 中世史家グレーヴィチは『歴史学の革新』のなかでこんなことを書いた。

 学問的表象こそが現実というものがはらむカオスを克服する。現実は、「事件の洪水」のなかにおかれた人びとの「日常的思考」にそれ自身の分析不可能性を突きつける。しかし、学問的表象はこうした分析不可能性を克服するのであり、それだけが唯一、諸現象の客観的連関を解き明かし、歴史上の諸事実の真の意味を開示するのである。

 この日目にした男らは皆、日常の思考と行為のなかに無反省に埋没し、おのれをみごとに発揮したといってよい。

中島みゆき「木曜の夜」。NHKラジオ深夜便
625.2020年10/15 23時05分。NHKラジオ。ラジオ深夜便。アナウンサー渡邊あゆみが冒頭、こういった。お米が切れそうだったのでスーパーへいった。わが家では外食はほとんどしないのでお米にはこだわっている云々。
 わが家。自他を厳然と区別する囲い地。ときにせせこましい。これがない人にとって渡邊の発言は神経を逆なでするものだろう。
 光浦靖子49才はカナダに留学するという計画をしていた。コロナで頓挫した。独身、彼氏なし、こどもなし、家なし。ないない尽くしで英語留学を考えたらしい。渡邊の「わが家」にはまったくもって共鳴できないのにちがいない。
 渡邊は前にこんなこともいっている。これも深夜便冒頭である。福島に母が住んでいる。誕生日を迎えた。おかあさん、おめでとう。
 番組の私物化もはなはだしい。渡邊の発言はことごとく相対主義の波濤をかぶって、水の底に沈む。泥土と化す。
 この女性には学歴由来のキャリアはあっても、積もる情懐がないのだろう。木曜の夜、これは中島みゆきの曲のタイトルだが、第4木曜、村上里和がママ深夜便と称して番組をやっている。リスナーを特定のひとたちに限定したものだ。村上には小学生の娘がおり、娘のことをよく口にする。
 ひるがえって元NHK森本毅郎は、TBSラジオの朝の番組内で家族のことは語らない。これがプロというものだろう。

●犬の散歩をする女の、虚無的胸内。
624.2020年8/27 大久保通りを渡っていく。信号機のある横断歩道である。信号の色にかまうことなく車の通行がないのをみて渡りおえたとき、このときになって視界に女が入った。暗がりの女は46くらい、体をまっすぐにわたしにむけ、顔もわたしにむけている。犬のリードを手にしており、中型犬が道端で草なのか何かに鼻をくんくんさせているようだ。わたしは近眼にしてめがねをはめていない。だから人であれ何であれ瞭とはわからない。女は横断歩道を渡ってきたわたしを、この数秒前にはすでに見とがめたのにちがいない。犬のことなんてそっちのけで、こちらを意識しはじめた。犬の散歩のほうにくるな。そう思っていたのかもしれない。なにしろ体をわたしにむけつづけていた。わたしが目的上やむをえずちかづくことになったら、女はごほごほっと口を鳴らしたかもしれない。俗的文化のなかにどっぷりつかっているだけの女にみえた。

セブンイレブン高円寺北店。バイト男のパンパーン。
623.2020年8/26 18時すぎ。早稲田通りにセブンイレブン高円寺北店がある。そこにおいて店員男18くらいが、てのひらでパンパーンとやった。店内作業でついたゴミかほこりをそうやってとっていた。わたしにてのひらを、さしだすようにむけてである。人の見かけに反応したのである。

●高円寺パル商店街ファミマの女。ル・ロワ・ラデュリ。
622.2020年10/11 この日曜、宵の口、高円寺エトワール通りから右へ曲がりこんで、パル商店街を歩いた。ファミマへいくためだ。そこにおいてあるコーヒー牛乳を飲みたかった。
 店内でさがしているとき、女21くらいがわたしをめざして歩いてくるのを察知した。きた、きた、まっすぐきた。類型女がきた。わたしがどんな人かを見定める。そうしてこの男(わたし)よりも絶対に先にレジにいかない。女の腹のなかが透けてみえそうであった。女はわたしがどこにいるかがわかるところにいる。見逃すまいとしている。スイーツに手をのばし、何やら品定めをしているようだ。この棚は通路とは九十度をなしている。本気で買おうとは思っていないとわたしの目にはみえた。
 コーヒー牛乳を手にレジへちかづく。ふりかえって女を見てやると、女はまだそこにいる。スイーツにいかにも興味があるふりをしているとみえた。女はたっぷり時間をとってそこを離れて、通路の奥へといった。手にはスイーツのカップなどひとつももっていないのがみえた。
 わたしがレジ清算中、この女はレジ待ちのところにいた。わたしの次である。思いどおりのこと、知らない男より先にレジにいかないということをうまうまやってのけた。
 中世史家ル・ロワ・ラデュリの著作『モンタイユー:ピレネーの村1294~1324』のなかにこんな一節がある。なおモンタイユーとは中世フランスの一村の名前である。

 モンタイユーは一滴の水にすぎない。それも薄汚い水たまりの一滴である。しかし、審問記録という拡大鏡を使ったおかげで、この水滴は一つの小宇宙と化した。レンズの下を微生物の泳ぎまわる様子が、歴史家には見えるのだ。

 ファミマ高円寺パル商店街店。そこにいた女は、微生物にほかならない。カトリックか、異端カタリ派か、はたまたイスラム教徒か。あるいは二重信仰か。ピエール・モリという男がいた。是が非でも霊魂が救われるようにと願って、二重信仰をもっていた。その女はたとえ教会に通う身であっても、その宗教心の精髄を何ら体現できていない。
 ラデュリの同書には、こんなくだりがある。

 槍にて脇腹をえぐられ、血と水を流し、それによりてわれらの罪をことごとく贖いたまいし主よ。汝より出づる水なる涙をわれに注ぎたまえ。そはわが心のすべての不浄、すべての罪を洗い清めんがため・・・・・・

 いま邦家においてこれを読んで、いったい幾人のひとがわが身をふりかえるだろう。

●制服女子高生のぴしーっ。鷺宮体育館。
621.2020年8/12 鷺宮体育館へと中杉通りをわたった。妙正寺川ちかく、銀行の前にバス停がある。そこに制服の女子高生がひとり立っている。バス停とこの女のあいだに歩道があるといった具合である。早い話が、自分の前を通っていく誰彼を見ることのできる立ち位置をとっている。35度ちかい外気温のなかわたしはそこを通っていった。
 ぴしぴしーっ。
 女子高生はわたしの耳に入るようにバッグのファスナーを思いっきりひいて音をたてた。耳への攻撃である。わたしはそこにそういう女がいるとわかっていたけれども顔も体形も見ていない。大学へいく学力などもちあわせない就職組の女子高生か。内面の情緒のかけらもない女でしかないとみえた。
 妙正寺川の川沿いをいく。女32?がわたしの前にきた。この暑さなのにわざわざそこにきた。ふりむいてわたしを見ている。わたしに興味津々のていである。
 この女を追いぬく。さらに走って差をひろげた。小橋をわたり、すぐそこの体育館の敷地へと入った。でてくる男52?がわたしを気にし、こちらを見つづける。高節なき鶏群のひとり。わたしはそんな男から身を離すように正面玄関へと歩いた。

●男が追いかけてきた。
620.2020年9/10 三叉路を右にいこうとした。このとき左から靴音とともにスマホ男がきていた。白マスクのサラリーマンふう。28くらい。もしわたしが右にいくなら、この男にうしろからつかれることになる。それで反転した。きた道をもどっていくことにする。実行した。男がさらにすすんだかと思ったとき、踵をかえした。男はわたしのいる道のほうに曲がってきていた。しかも道をさがすようなふりをしている。男はわたしの脇で立ちどまり、わたしに体をむけた。人を追いかけつづけているというわけだ。
 しつこい。なんでもありだ。
 またこんな男がいた。探求型の生き方をしてきていない。人を見て散文的に反応する。どうかなると思っている単純さである。

●池袋の男。コロナウイルスよりも賤微な男。
619.2020年9/9 池袋でのこと。さる細道を歩いているとき、うっと口中音がきこえた。左後方、上のほうからである。そこへと首をまわす。建物二階のベランダにケータイかスマホを耳にあてている男がいた。46くらい。下を歩くわたしを見ている。精神世界がみごとに欠損し人を眺めるだけ、そんな男がまたいた。うっ。いちいち口を鳴らし、わたしをふりあおがせたというわけである。高等教育に無縁にみえたのはいうまでもない。
 マックス・ヴェーバーによると「神の恩恵により道徳上欠けるところのない者となりえたことへの感謝」をピュウリタン市民はもった(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。この国のいま、放恣な暴横がコロナウイルスのごとく瀰漫している。

●中野ふれあいロード。南長崎スポーツセンター。
618.2020年9/3 中野ふれあいロードという名の飲食店街においてカップルがならんで会話もなく歩いてきていた。道はせまい。立て看板がじゃまになっているところでちょうどすれちがいそうだ。
 ううっ。
 女35くらい高卒非教養人ふうが口を鳴らした。よける気はこれっぽっちもないとみえた。この道ではろくな目にあわない。
 南長崎スポーツセンター更衣室において気づいたとき、男48くらいプータローふうがわたしの斜め後ろにいて――こんなところにいるべきではないところにいた。わたしに体をむけ、スマホに目をおとしている。早く帰ればいのに帰らない。それにマスクなしである。人を気にして何になるという問いを自身にぶつける鍛錬の日々を経てきていない。みずからの哀れさに気づいていない。
 この男と同列の男が、早稲田発の東西線車両にいた。座席にすわっていながら、両ドア空間越しに体をわたしにむけてきた。わたしを見ていた。よほど人が気になったというわけで、ヘンタイである。

J-WAVE宮台真司。グレーヴィチ。ホイットマンヴェーバー

617.2020年9/2 宮台真司J-WAVEにでていた。青木理にリモートでコメントしていた。わたしはたまたま聴けた。

 宮台は今次の安倍首相辞任会見にあたって、この国の惨たる現状をあげた。ひとりあたりGDPが韓国にぬかれ、先進国中最低水準である。家族をつくらない人がいる。孤独死が多い。ほかにもいろいろ趨勢をとりあげた。解決策として宮台が考えるのは家族主義であるらしい。

 家族主義?これってこの国をかえられるもの?。泥沼からひきあげてくれるもの?

 宮台は家族をつくっている。都立大教授の任にあり、生活するのに不自由はしていない。たらふく食べられる。

 社会学者として統計・分類・理論に偏していないか。そういうものを盾にとっていないか。

 アーロン・グレーヴィチは『歴史学の革新』のなかでこういう。

 

 歴史家の論理によって一般化を施された説明が因果的説明なのであり、一般化に馴染まないもの、すなわち、歴史家が「非典型的」あるいは「独自的」とみなすものが偶然性と称せられる。偶然性に関するこの判断がもし妥当であれば、歴史家は、かれが与える説明がつねに論理的構成物であり、歴史の現実的諸連関の単純な(写真のような)反映ではないのだ、ということを肝に銘ずるべきである。・・・・・・歴史家は、少なくとも自分が理解できないことを無視したりせぬように、あらゆる認識行為に当てはまるこのありふれた真理を忘れるべきではない。

 

 このくだりの歴史家を社会学者とおきかえてみると、宮台の発言をそのままうけとめることはできない。宮台のそれはエリート主義的罵言である。

 グレーヴィチは歴史的法則性が人間の「外部」に、人間を「超えて」存在すると考える。

 「なんらかの人間集団や政府や個人の意識的活動の所産ではなく、かれらが追求した諸目的とは大いにかけ離れた何ものか」(同書)――この存在を考慮にいれるなら、この国の現在のありようを口をきわめてあげつらうのは烏滸の沙汰であるといえよう。

 正常も異常もない。日向も日陰もない。多様なものの混沌。19世紀の詩人、ウォルト・ホイットマンはそんなことを『草の葉』に書いて讃えた。

 

 地球はそれ自体を露呈しない。また、それ自体を露呈することを拒みもしない。その内部には、まだ持っているものがある、

 その表面の音響、英雄たちのいかめしい合唱、奴隷たちの慟哭の奥底に、

 恋人たちの口説、呪詛、瀕死の人の喘ぎ、若者たちの高笑い、売手の口上の奥底に、

 それらの奥底に、尽きせざる理解ある言葉を蔵しているのだ。

 

 マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかでこういう。

 

 プロテスタンティズムの天職倫理が禁欲生活のまさしくもっとも真面目な信奉者たちを結果において、資本主義的営利生活に奉仕させることになったのとは正反対に、カトリシズムにおけるこの自由派(latitudinarisch)的見解は、まさしく、もっとも真面目で厳格な信徒たちが近づかない、つまり、教会の権威によって承認されていないような、独自の弛緩した倫理学説の産物だった。カトリシズムでは条件つきで許容されえたことがらが、プロテスタンティズムでは積極的に道徳的に善いこととなったのだ。

 

 西欧の中世から近代への歩みに照らすなら、アジアのこの国のいま、一部の例外をのぞき、禁欲だとか倫理だとかは極小化し、営利のみが大兵肥満のでっぷりした腹のようになっていよう。だから人は人にちょっかいをだす。ごほっ、と。うっ、と。コンビニでは、人を眺める。人の動きを見きわめて自分の行動をきめる。

●だじゃれ王。川相昌弘氏。

616.2020年9/13 ニッポン放送ショーアップナイター。解説は川相昌弘氏と桑田真澄氏であった。川相さんはレギュラー、桑田さんは11年ぶり?のラジオ解説、特別ゲストである。

 実況は松本アナ。川相氏が、

「松本さん、ポイントですよ、ポイント」

といった。

 間の抜けた発言にきこえた。松本さんはいささか返答に窮していた。

 ひと呼吸おいて、「鍵や」と川相氏。ピッチャーは鍵谷である。

 わらえたぁー。ひさしぶり。世界のバント王がだじゃれ王の一面をみせた。

 ついで時があって、バッターがヤクルトの西田のとき、川相氏は「西田がアウトになって二死だ」といった。

 きいていた桑田氏は解説者・指導者になっても野球ひと筋であり、あっけにとられたようだった。

 実況が煙山アナであったら、もっと笑いの渦がおきていただろう。松本さん、ごめん。なにしろ煙山アナは、真中氏が解説のとき、ピッチャー中山のことを、あの押しも押されぬ大物俳優、中尾彬といってしまったことがある。

 川相氏は桑田氏より三学年上である。川相氏だってピッチャーとして甲子園に二回でて一勝している。桑田氏は松本アナがいうようにミスター甲子園である。おなじ読売巨人軍にいたとき、後輩として耳を傾けるべき桑田氏は、川相氏の話をときにおもしろくきいた。ときにはその反対だったという。

●絆。ヴェイユ

615.2020年4/9 早稲田原町。男ふたりが建物の前にいる。何をしているのかわからない。そのうちのひとりは23くらい、うっと口を鳴らした。雨のなか傘をさして歩いているわたしにである。ことさらに、あらぬ分け隔てをつくった。

 ヴェイユはわたしたちと神のあいだについてこういう。

「どんな分け隔ても絆になる。」

 その男とわたしとのあいだに絆なんていっさい生まれようがなかった。

●女が背中をみせる。

614.2019年3/24 角を曲がりこんで路地裏を高円寺駅方面へと歩く。前方を見ると、女がわたしに背中をみせて、もったいぶるようにゆっくり歩いているのがわかった。48くらい、ブルージーンズの女だ。茶色い染め髪がきれいに切りそろえられ、くしけずられている。日の光にてかてかしている。何ゆえかそのあたりにいて、曲がりこんだわたしが気づかないうちに私を見て、さっと体のむきをかえた。きっとそんなところだろう。こっちを無視しはじめたということだ。

 そのまま歩いていく気がしなかった。そんな女のそばを通らざるをえないからである。踵をかえした。道をかえた。

●キッチンオリジンの女。阿佐ヶ谷パールセンター。

613.2019年3/23 きのう午後、阿佐ヶ谷パールセンターにあるキッチンオリジンへいった。レジカウンターに客として女がいた。その後ろ姿をぱっとみて、紺色のスーツゆえに就活中にみえた。
 出入口ちかくに豚汁がある。それをすくっているとき、その女に見られているのではないかと思い、顔をふりむけた。予想はあたった。あまりにも予想どおりであった。女は22くらい、体をわたしにむけている。手はバッグのなかをまさぐりつつ、顔をわたしにむけ、奇体なものでも見るかのように目線を注ぎこんでいる。人をたしかめないではすまない。こんな性向の女がまたいた。性向というよりむしろ塵界のあしき風潮である。みごとに染まっている。こういう女に衆に穎脱する自己があろうはずはない。
●中野。愚昧女と愚昧男。グレーヴィチ。
612.2020年7/26 セブンイレブン中野駅北口店をでた。中野通りの歩道をいく。
 ごほごほっ。
 口中音がした。ふりむくと、女がわたしを見ている。23くらい、高卒ふう。建物からでてきたばかりだ。またこんな女がいた。
 歩くのをやめる。この女を先にやった。ごほごほっ。女はまたやった。無理なカモフラージュである。馬鹿につける薬はない。女は歩道のガードレール沿いに立ちどまり、スマホに目をおとしだした。あとからわたしがくるのを待ちかまえているようにみえた。
 道をかえることにした。
 このあと南口方面にあるローソンへむかった。
 ごほっ。
 口中音がした。見ると、道の反対側を歩いている男が、わたしに顔をむけてわたしをじーっと見ている。22くらい高卒ふう茶髪バミューダパンツ、サンダル履き。いちいち口を鳴らして人にちょっかいをだしたというわけだ。わたしはこのときまで、この男が道のむこうからきていることなぞつゆ知らずにいた。精神脆弱男。そんな男がまたいた。
 グレーヴィチはこういう。「偽善はいつの時代にも事欠かない。現実の生活とより高度な理想との間に今見たような断絶があったということを偽善のせいにだけしてしまうのは、誤った短絡化であろう。中世の人間は世界が二つに分裂していることを意識していた――聖性、慈悲、公正の至高の王国に対立するものとして、罪と誘惑が悪臭をはなつ地上の世界があると考えた。人間は、通常、この地上世界の抱擁からのがれることはできず、自分の弱さの報いとして精神の分裂状態と劣等感におちいるのだった。」(『中世文化のカテゴリー』)
 さきの女も男も意識の軸を、汚穢まみれの地上にだけおいていよう。
●阿佐ヶ谷の男。ううっ。
611.2020年7/16 阿佐ヶ谷。飲み屋街ふうの裏通りをいく。むこうからカップルがきていた。20代前半くらいである。左側の何かの店前に、こちらもカップルがいた。だからわたしは二組のカップルのあいだをいくことになり、どちらにも接近せずにいけると思っていた。だが、むかってきた男24くらいが思いのほかわたしとちかくですれちがう。ううっと口を鳴らした。この男は女といながらわたしへとわざわざむかってきたのだといまは思う。何日か前、男28?が阿佐ヶ谷のローソン100に入ってきてわざわざわたしのうしろをえらんでとおって、ううっと口を鳴らしている。この男の同類がきょうあらわれたというわけだ。
●青梅街道の男。グレーヴィチ。
610.2020年7/14 杉十小プールへいこうと青梅街道の歩道にいた。枝道を男23くらいが、ビニール傘をぶらぶらさせてやってきている。この男を避けて、わたしはラーメン店へと体をむけていた。そのときだ。うしろをとおりがかったその男が、ごほごほっと口を鳴らした。枝道のときからわたしをじーっと見つづけていたのである。
 グレーヴィチはいう。「中世の人間は世界が二つに分裂していることを意識していた――聖性、慈悲、公正の至高の王国に対立するものとして、罪と誘惑が悪臭をはなつ地上の世界があると考えた。人間は、通常、この地上世界の抱擁からのがれることはできず、自分の弱さの報いとして精神の分裂状態と劣等感におちいるのだった。」(『中世文化のカテゴリー』)
 さきの男には、うすよごれた地上の世界があるばかりだろう。分裂などまったくしていないにちがいない。

秋葉原カップルが手をつなぐ。

609.2020年8/10 中央総武線各停を秋葉原でおりた。ホーム上、乗ろうとしているカップルが手をつないでわたしにむかってきた。ことに女のほうはそうみえた。よそゆきのかっこうである。こんなところで手をつなぎあうか。それに暑い。湿気むんむんである。わたしはその21か22くらいのカップルから目をそむけた。よけないこいつらをよけた。
 秋葉原ヨドバシカメラの前に横断歩道がある。まだ赤信号のとき、車道のむこう側にいる男19くらいが、わたしの動きを気にしていた。
 そこを渡っていく。その男がこないほうを歩いていく。だが男はななめにわたしにむかってきた。またこんな男がいた。高卒男。
東西線車掌の女。グレーヴィチ。
608.2020年8/10 中野駅ホームに立つ。線路のむこう、3番線のホーム端に女がいる。東西線の車掌である。この女は線路越しに体をわたしにむけてきた。知らんぷりのていで、その実こっちを見ている。またこんな女がいた。天上の神の視座などまるでもちあわせていないとみえた。塵境でしか生きていない。マックス・ヴェーバーが書いたように、あるがままの世俗生活を認容しているにすぎないのだろう。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)