★太宰治『人間失格』。チェスワフ・ミウォシュ。이십이.veintidós.

581~607
東亜学園の女子生徒。男子生徒。グレーヴィチ。
607.2020年8/5 西武新宿線新井薬師駅がある。そのホームにて下り電車を待った。18くらいの女がわたしに体をむけて立ちつづけているとわかった。すぐそこの東亜学園の女子生徒にみえた。運動部の練習帰りのようだ。またこんな女がいた。
 こんな女を避けようと連絡階段をのぼった。下りホームのむこう側へおりた。すると今度は上りホームに男子生徒がいるとわかった。白い半袖ワイシャツに黒スラックスをはいている。東亜学園か。線路越しにこちらに体をむけて立ちつづけている。こんなのばかりだ。
 アーロン・グレーヴィチは『歴史学の革新』のなかで次のように書いた。「歴史認識は、現代から過去への、知的好奇心に満ちた粘り強い、そして絶えざる問いかけにほかならず、換言すれば、現代に生きる人間であるわれわれ自身を掻き立てるような問題の設定そのものなのである。・・・略・・・こうした接近法の特徴は、過去の人間の創造物に対して、過去の文化そのものが問いかけようとはしなかった、また、明らかにそうできるはずもなかった諸問題を対置するという点にあるということを、とくに強調しておくべきであろう。」
 この文言にひきつけていうなら、さきの東亜学園?の女子生徒も男子生徒も、みずからの行為の是非もしくは当否を問いかけようとはせず、また、そうできるはずもなかったということである。
 ヨーロッパ中世の歴史家グレーヴィチは同書において次のようにいう。われわれの文化に潜む「潜在意識」は、われわれが自分の時代に囚われ、自己特有の心性世界に没入しきっているために、そもそもわれわれ自身には認識されえないものである。
 あの女子生徒および男子生徒は、人に体をむけ、じーっと視線をそそぎつづけた。前に赤羽岩淵駅のホームでみかけたカトリック修道女とはまったく様相がちがっていた。十代のかれらはまさにグレーヴィチの書いたそんなところにすぎないだろう。
高橋源一郎とラジオと。町亞聖
606.2020年8/8土曜 NHKラジオ午後一時すぎ。高橋源一郎の声が流れてきた。またこの男だ。昼の一時だというのにこの男だから、再放送である。前日金曜夜の「飛ぶ教室」のである。
 もともと高橋は同ラジオの朝の番組でキャスターをしていた。番組はおわった。あたらしい番組をやりませんか。そんな局の要請をひきうけたのである。
 この日、高橋は冒頭こんなことをいった。いつものひとり語りである。一文なしになって貧しかった父のこと、いま二才の息子が鏡に映りこんでいること。いつものように家族のことを公共の電波にのせた。おそらく無意識のうちに家族を鎧としている。
 元日本テレビの記者、町亞聖はラジオニッポンで岩瀬恵子のピンチヒッターをつとめている。未婚であるとみえる。なにかと姪っ子が姪っ子がという。この女の心内も高橋のそれとにていよう。
 アパホテルの創業者令夫人たる元谷芙美子は、ラジオニッポンにでて、こういった。息子はよく働く。お嫁さんは娘のようにかわいい。孫が五人もいる。この元谷も高橋、町とおなじ種族である。
 高橋は財をなした。それで鎌倉に遷居している。これについても番組内で別の日に語った。
 おのれの実存について語ることが何もないのにちがいない。わたしは小型ラジオのダイヤルを切りかえた。
ローソン100の男。
605.2020年7/14 阿佐ヶ谷駅の北口方面にローソン100がある。そこでロールパンを見ていた。買おうとしてだ。
 うううっ。
 そんなふうに口を鳴らして男26?が、わたしのうしろをとおって通路の奥へといく。わたしはとりたてて邪魔になっていたわけではない。それに奥へいくには、わたしのうしろではなくわたしの前のほうの通路もあり、その前のほうならすっすっといけたはずである。この男はうううっと口を鳴らしたくて人を見つけて標的にしたとみえた。
 レジで清算中、この男は順番待ちの先頭にいた。もうひとつのレジで清算をおえ、わたしの横をとおって――わたしはこの男に背をむけていたので――でていく。ううっとやってやると、この男はううっとやりかえした。口を鳴らす。これをしょっちゅうやっているのにちがいなかった。
●杉十小プールの女。白いスイミングキャップ。
604.2020年7/14 杉十小プールへいく。女が入ってきた。白いシリコンの水泳帽をかぶっている。そういうものはたいてい常連がかぶる。30代か、20才そこそこくらいか。この女は水中でわたしの前方には断じてこなかったので年齢はわからない。ひどい女だった。
 おなじコース内で横にふたりが泳げる。右がゆっくりの人、左がはやい人である。わたしがゆっくりのほうで25メートルを泳ぎきったとき、女ははやいほうを泳いできていた。わたしはとなりのコースへいくのをためらった。この女はあと二メートルくらいのところで泳ぐのをやめて立った。わたしの前にはぜったいにいかないということであった。
 この女の性情がすけてみえた。このあとずっと、この女はわたしが25メートルを泳ぎきると、はやいほうであと数メートルで泳ぎつけるところまできていた。この差をぜったいに埋めなかった。わたしを追いぬくことは一度もなかった。こちらの水のなかでのようすをたんまり目にし、自分の姿はぜったいに人の目にみせない。これを徹底的にやってのけていた。人にあわせるだけの女、確たるおのれのない女であった。
●ポテトサラダ。
603.2020年7/13 ファミマ高円寺駅東店で清算のためにレジについていると、ごほっと口中音がした。しかも真うしろである。ふりむいた。男48?めがね非正規労働者ふうが、しらをきるような顔をさらしている。このご時世であるのにマスクをしていない。レジはひとつしかあいていず、はやくやれというわけである。わたしはカードをつかうので店員の手際がよければ小銭じゃらじゃらよりもうんとはやい。またこんな迷惑男がいた。これこそ迷惑男だ。
 もうひとつのレジがあき、この男はそこへいった。出入口のほうだ。わたしはこの男に背をむけてレジ清算の作業を待った。中国人女性22?は要領がわかっていないようで手間どっている。わたしはわざとふりむく。当の男がどんなふうかを見た。この男は体をなかばわたしにむけている。わたしがふりむきおわったそのとき、顔をレジへむけた。わたしを見ていたことのわかる、まぎれもない愚かな所作であった。
 高円寺通りはJRと交差している。その高架下すれすれの横断歩道を渡ろうと、手前で信号を待った。気づくと、右手のほうにいる自転車の女――28?幼児をうしろにのせた女が、横にむけた顔をわたしに注ぎつづけていた。人をずけずけ見ていた。またこんな女がいた。
 ずーっとこっち見てる。
 マスクごしにそういってやった。馬の耳に念仏のようだった。
 わたしは後方にさがった。女は例によって顔を九十度左にむけつづけてわたしがどこにいるのかたしかめようとしていた。ついで右にむけ、歩行者信号が青にかわるまでおなじことをやりつづけた。
 阿佐ヶ谷への道において、ごほっと口中音がきこえた。うしろからである。男がわたしの後ろ姿を見ながらそうやった。20代前半にちがいない。高卒男だ。わたしが横をむいてやりかえすと、男はふたたびごほっとやった。またこんな、ちょっかい男がいた。内面の空虚さをいちいちさらけだしていた。
 ネット上でポテトサラダが話題になっている。ある女性がそれを買おうと手にとると、高齢男性(じじい)がこんなようなことをいったのだという。
 そんなものは自分でつくれ。
 また、ある女性は、幼児?と歩いていた。うしろからじいいにこういわれた。
 じゃまだ、どけ。
 じじいは女性の前へでて、その腹を蹴った。
 高齢男性だけが俎上にあげられてはならない。年齢・性別にかかわらず人は人にちょっかいをだす。何か不満をかかえている人がそうやる。自尊心が高い低い云々の問題ではない。
 きょうのごほっ男ふたり、しかりである。あの自転車女も、これから書く女もしかりである。
 阿佐ヶ谷パールセンターにローソンがある。おにぎりをひとつとってレジへいこうとすると、すでにレジ清算中の女の顔がレジのほうへむきなおっていく。わたしを見ていた顔をレジへともどしていくというわけだ。顔を横にむけて、だれが、どんな男が何をとるのか見ていた。
 おにぎりをもとにもどした。買うのをやめた。
 ずーっとこっち見てる!
 女45くらいにそういいつつ、この女のうしろを小走りに走った。こんな店をあとにした。
●阿佐ヶ谷パールセンター。女が自転車を押して歩く。グレーヴィチ。
602.2020年7/12 きのう夜、ある建物から阿佐ヶ谷パールセンターへでようというときのことだ。女23?が自転車をひいていきつつ、顔をわたしにむけてわたしを見ていた。この女の二メートルほどあとをいくことになった。女は首を九十度右へまわし、うしろにわたしがきていることをたしかめつづけた。ついで今度は左へ九十度まわし、おなじことをやりつづけた。またこんな女がいた。
 すぐそこのセブンイレブンへ入り、こんな女を視野から消した。
 グレーヴィチはいう。「この利益社会=市民社会は、個人間の直接的な人間関係ではなく、個性を失って一様になった商品所有者間の関係の上に建設されているのである。」
 これは、この国の人びとのありようについて書かれていたとしても首肯できるものだ。
杉並学院中学校高等学校校長へ告ぐ。警備員。
601.2020年7/11 杉並学院とJRのあいだを高円寺へと歩いていた。このとき同学院の警備員が敷地の端からでてきた。そこで何か用があったらしい。この男は校舎の出入口へはむかわない。歩いているわたしにむかってきた。じゃがいもじみた面貌の男、48くらいである。見かけの警備服だけととのった卑夫である。またこんな男がいた。
 グレーヴィチはいう。「中世の社会の職業組合的性格は同時に精神の画一主義でもあった。」(『中世文化のカテゴリー』)
 杉並学院の警備員は、ばかそのものである。
●阿佐ヶ谷。文具店の女。
600.2020年7/11 阿佐ヶ谷北口アーケードに老舗文具店がある。そこに入った。割れない、というよりせめて割れにくい下敷きがほしかった。先客がいた。女、48くらいである。いやな予感がした。予感はあたった。なんとなれば、わたしが店員の男性(店主?)と下敷きを見つつ品質の話をしているとき、その女は、こちらを視野にいれられるところにきていたからである。外見はりっぱでも知徳のうすそうな顔で、何か商品を見つづけていた。時間かせぎをしていたのにちがいない。わたしがレジへいくのを待っていたのである。先にレジにつきたくない。うしろから見られるというわけだ。コンビニにもしょっちゅうこんな女がいる。
 レジにつくと、この女はたちまちわたしのうしろにまわった。
やよい軒の男。グレーヴィチ。
599.2020年7/11 やよい軒早稲田店。男23くらいはとっくに食べおわっているのに帰らない。スマホをいじくっている。わたしはこの男からちらちら見られていたのにちがいない。わたしがこの店にいるあいだずっと、わたしが食べおわって帰る段になってもなお、この男はいっとう奥のいわば特等席にいつづけた。わたしがでていくとき、店内に客としているのはこの男ひとりであった。
 アーロン・グレーヴィチは次のようにいう。ビザンティウムの貴族社会の「個人主義」とは、自分の立身出世と金持になることだけに心を砕き、本来の人間の尊厳の感情と言えるものを欠き、与えられる餌には卑屈な態度でとびつき、皇帝におもねる下僕の個人主義であった。(『中世文化のカテゴリー』)
 上記の男はこの手の個人主義の体現者であるのにちがいない。
●阿佐ヶ谷パールセンターローソンにいた男。
598.2020年7/10 阿佐ヶ谷パールセンターを歩いていくと四つ辻にローソンがある。男24?派遣社員ふうは、わたしが入ってきたのを見るや、レジへいくのをやめた。レジへいきかかっていたというのにわたしに反応したというわけだ。顔だけをこちらにむけていた。
 この男はわたしがおにぎりをとったところを見ていた。これがわかったのは、わたしがあまり迷わずひとつとってふりむいたとき、この男の目玉が泳ぎ、わたしからそれたからである。わたしは見逃さなかった。
 この男はわたしがおにぎりひとつのレジ清算中、順番待ちの先頭にきた。わたしをうしろから思うさま見はじめた。目にみえるものだけに反応をしめす。これが内面からっぽ男の典型的様態である。
●高円寺読売新聞専売所前。
597.2020年7/10 きのう高円寺読売新聞専売所前に男が立っていた。68くらい。道行く人を見ているとしかみえなかった。わたしを見ていた。
 とおりすぎてふりかえった。男はわたしになおも顔をむけていた。
 パー。てのひらでそうやった。
 東西線中野行きに乗った。女24?が長椅子のほうで立っている。じきにわたしに顔をむけた。わたしは小冊子をかざす。これは右手のほうである。左手のほうに男36?が立っている。この男は次第次第にわたしに体をむけてきた。ひと駅目の高田馬場で人がたくさんおりる。わたしは、あくドアのほうへ反転した。この男の目はわたしのズボンへと、靴へと這っていく。またこんな男がいた。
●中央線快速の男。
596.2020年7/5 中央線快速。これにお茶の水から乗った。前にいやな目にあったのでもう乗るまいと思っていたけれども、速さの誘惑に屈した。
 すじむこうの男56?が体をわたしにむけてきた。その態勢で新聞を読んでいる。
 新宿で何人もが乗りこんできた。コロナ緊急事態宣言発令中のときとはまったくちがう。男23?が体をわたしにむけて立った。すわれるところがあるのにすわらない。最低である。タブレットか何かを見ている。こうしつつも、すわっているわたしのようすをちらちらうかがっているわけだ。わたしの横も、そのむこう、この男のまんまえもあいている。ばかだ。高卒め。
 快速、ことに新宿から中野のあいだはゆれる。揺れているのにこの男はからだをわたしにむけて立ちつづけている。こらえきれず足を一歩わたしのほうへと踏みだした。わたしは自分の足が踏まれるのではないかとおそれた。男はようやく片手で吊り革につかまった。揺れると顔だけはそっぽうをむいていた。からだのむきはかえない。まともに感情が働かないのだろう。善徳というものの存在を知らない男、確たる個のない男がまたいた。
秋葉原。各停中野行き。グレーヴィチ。
595.2020年7/10 秋葉原駅ホーム。男がちかづいてきた。58くらい、勤め人ふう。ううっーと口で音をたてた。わたしのうしろにつこうとした男だ。電車がきてわたしが動いたことに立腹した。またこんな男がいた。この男は次のお茶の水で快速に乗りかえた。
 グレーヴィチはいう。「自由人は自分の意志に基づいて生活し、自分自身を規制するのに対して、非自由人は自分の意志に基づくのではなく、法に従うのでもなく、他人の意志に従って生活する。」(『中世文化のカテゴリー』)
 だから不満がたまる。
「人間の社会的地位、労働能力、世界観は、本質的に彼個人の資質ではなく、職業組合的集団の資産であった。」(同書)
「労働は人間を高潔にすることはできないものであり、無意味であり、頭の働きを鈍らせるものである。労働には内的な美はなく、またあり得ない。」(同書)
 中野行きがすきだした。ひとつおいたむこうに男がすわっている。17くらいか。この男、高校生?は、わたしが右側の広告を見ていた隙をついてわたしに顔をむけ、わたしを見ていた。わたしが顔を正面にもどしたときにそうだとわかった。独個の精神をもたない男がまたいた。
高橋源一郎太宰治人間失格』。チェスワフ・ミウォシュ。
594.2020年6/19 うちの妻はこどもたちの写真をとりつづけています。高橋源一郎がそういった。
 スマホで朝な夕な写真家になっているということだ。そんなスナップショットが先々おこるかもしれない家庭内暴力の予防線になるかもしれないと、これを書いているわたしは考えてしまう。そのきわめつけが赤ん坊のときの写真を、いつも飾っておくことである。
 うちの妻云々は金曜夜のNHKラジオでのことだ。高橋は番組をもっている。そのなかで自分のことを語る。前々回であったか、自分のこどもたちのことを次のようにいっていた。かれらはいま人生でいちばんまぶしいときをすごしています。たしかそんなふうにいっていた。それはおとなにとっての狭隘な子供観にすぎない。
個と孤の深奥に回路をつなげているか。疑わしい。わたしはラジオを切った。
高橋源一郎。19〇〇年生まれ。□□才。父の経営していた工場がつぶれ、家族四人で関西から夜逃げをし、東京は練馬区内のアパートに住んだ。番組内でそう語っていた。いまの奥さんとは五度目の結婚か。五回五回っていわないでくださいよおと、別のラジオ番組で残間里江子を制したことがある。
 能町みね子によって大作家と形容され、讃えられている。その能町が高橋の当のNHKラジオにリモートででたことがある。太宰治が題材になったときのことだ。
 あたし『人間失格』って読んだことがないんじゃないかって・・・・・・。能町はそういった。太宰作品について、とんちんかんなことしかいえていず、この男(女?)に出演依頼した制作側の不見識があらわになった。読んでないならでるな。わたしはそういいたくなった。このときもラジオのスイッチを切った。
 付言しておきたい。わたしは太宰信者でもなんでもない。『斜陽』のなかにこう書かれている。
「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬっていうけれども、本当かしら」
 ばかか。ノートを読みかえすたびにそう叫びたくなる。
 『人間失格』。これを読んだのは、記録をたどると昨年十月から十二月のことである。長塚節『土』のあとに本棚からえらんだ。買った覚えはない。もともとの所有者はわたし以外のひとである。それを読んで、こんな太宰にひかれる人がおびただしい数にのぼる?ということにあきれるほかなかった。
 昼間、阿佐ヶ谷パールセンターを歩いた。男23くらいが、スマホに目をおとして立ちどまっている。歩いていくわたしに反応するようにわたしの左前方を歩きだした。わたしの前方には女ふたり(40くらいと十代後半くらいの親子か)が歩いている。わたしは早足なのでこの女らに追いつき、その男とならぶあんばいになった。好きこのんでそんな状況をつくりだしたのではない。
――うううっ。
 男が口を鳴らした。手にはスマホである。
――うううっ。
――またやった。
 わたしは聞こえよがしにそうつぶやいた。男は顔をこちらにむけた。反応したのである。加藤諦三のいう自分というもののない男、個我のない男がまたいた。
 商店街の人足を縫って前へでた。セブンイレブンに入りこんだ。
 買うものを手にし、さらに買おうとしていたときのことだ。
 ごほごほっ。
 男24くらい仕事なしふうが思いっきり咳まがいの音をたてた。わたしにむかって、狙ってである。コロナ殃禍のなかマスクをしていない。またこんな男がいた。この店にはほんとうにおおい。商店街の外的華やかさに比してまこと殺伐としている。
 高橋源一郎から始まって長々と書いてきたわけは、ノーベル賞詩人たるチェスワフ・ミウォシュの次のくだりが脳中にあるからである。文言は全体の一部なのですこしわかりづらい。「党」とは東西冷戦期の共産党のことをさす。ミウォシュの故国ポーランドのそれか当時のソ連のか、いま本(『囚われの魂』)が手元になくてわからない。
「党としては、人間とは単に社会諸勢力の副産物だと見なす以上、党の描くタイプの存在になると信じているからだ。なにしろ人間は社会的な猿なのだから。外に表現されぬことは存在しないことを意味する。だから、人間本性の深奥部をほじくるのはやめよと命じたなら、それはその欲求が消えたことになる。つまり人間の心の深奥など、だんだん、ありもしないことと相成る。」
 昼間、すずらん通りから阿佐ヶ谷パールセンターへ入った折、むこうからスーツ姿の男ふたりがならんで歩いてきているのがみえた。ともに20代まんなかくらい。ヤングエグゼクティヴ?りゅうとした身なりである。大手をふっているようにみえる。そのひとりがわたしを凝視するように見ていた。徳性のうすさを見せていた。すれちがうやいなや、ううっと口を鳴らした。またこんな男がいた。人の見かけに反応をみせた。
 人間本性の深奥部。ミウォシュの書いたそこ。高橋源一郎、阿佐ヶ谷パールセンターの男ら、かれらはそこに手をのばしているか。ラジオでの物言いと創作とは別なのか。
 おなじページでミウォシュはこう書いた。「私の詩は、つねに己自身を検証する手段だった。」
 ミウォシュはたったひとりしかいない。
●女が口を鳴らす。マックス・ヴェーバー
593.2020年5/23 夜、セブンイレブン高円寺駅東店からの帰り、住宅街のちいさな公園のところに男が立っているのがみえた。二十代前半くらいである。何をされるかわからない。だから道をかえた。ふだんは通らない道をいく。
 前方遠くから自転車のライトがむかってきている。わたしはちがう道をとった。すると、またも自転車がきていた。それで元の道へもどった。自転車の女21?が、もどってきたわたしを見てすーっと口を鳴らした。またこんな女がいた。
 マックス・ヴェーバーはカルヴィニズムをめぐってこんなことを書いた。「自己の選びに確信をもつ者にとっては、みずから認める罪は成長の不足と聖化の不完全を示すものであって、彼は悔いるのではなく、これを憎み、神の栄光のために行為をもって克服しようと努める。」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)
 さきの女は心的に苛烈に貧しい。金銭に裏打ちされるばかりにみえた。
●鉄道職員。つくばエキスプレス
592.2020年5/25 快速に乗ろうとしていた。階段の脇壁と車両とのあいだをいこうと、そこへ入りこんだ。そのとき駅員が、せまいむこうからきているところだった。わたしは車両内の空席具合をみていたから、駅員であってもなくても人がくるのをみていなかった。ぶつからなかったが、あやうくぶつかりそうになった。すこし低姿勢に頭をさげた。先方はわたしよりももっと恐縮していた。めずらしい。こんな駅員もいる。
●女が日傘で顔をかくす。
591.2020年5/25 中野駅南口へ、一本道のだらだら坂をおりていく。中野通りへでようというときだ。日傘の女22?が顔だけをわたしにむけ、こちらを見つづけながら目の先を左から右へいく。よくある行為である。人をこけにしている。さらに近づいたとき、この女は日傘で顔をかくした。こちらからの視線をさえぎっていた。視線がきていると思っているわけである。
 またこんな女がいた。見かけの奥にある本源的なものをさらけだしているにひとしかった。日傘をにぎりて嵩なしということだ。
 高卒女。銭金第一主義女。自給的農作業とは無縁の女。
●顔をむける。快速東京行き。カズオ・イシグロ
590.2020年6/23 ローソン100において、女62?はレジ清算中、顔をわたしにむけた。わたしを見にかかった。わたしなら順番待ちの人に背をむける。またこんな女がいた。
 ちかいほうのレジがあいた。そこで清算をすることになった。その女のいたところへは、わたしのうしろにいた男がいった。この男29くらいには、見覚えがあった。売り場においてわたしのようすを見て、わたしに体をむけてきていた。レジ清算中、さっきの女と同様、顔をわたしにむけてくる始末であった。わたしなら背をむけよう。またこんな男がいた。
 快速東京行きに乗った。先頭車両の車椅子スペースにいるつもりが先に乗りこんだ男が、そこを狙っていたかのように入りこんだ。だから二両目にした。車両のまんなかより三両目寄りである。
 優先席の横のドアのところに男がいる。53くらい。白マスクにスマホ。紺色ジャケット。勤め帰りふう。椅子の支柱を背にし体は車両内を見渡せるようなむきである。ちらちらちらちら目をあげては、ドアをむいて立っているわたしやら、すわっている人たちやらを見ているふうであった。品格ゼロを地でいく男にみえた。いまカズオ・イシグロブッカー賞受賞作『日の名残り』を読みすすめている。これは、英国執事のまさに品格をめぐっての小説である。その男は読んでいないのだろう。
 アーロン・グレーヴィチはこう書いた。「名誉は、自分自身の品位についての内的意識というよりも、そして、他の人々とは自分の個人的な特質が異なっていると感じている人の自意識というよりは、むしろ自分を取り巻く人々の間における名声であった。」(『中世文化のカテゴリー』)
 その男はこういう名声をもとめていよう。
●韓国語。ミハイル・バフチン。フランソワ・ラブレー
589.2020年6/22 中央線各停三鷹行き。男38?は新宿から乗りこんだ。わたしからひとつおいたむこうにすわった。最後尾車両、片側だけの優先席、その連結部寄りである。わたしはハングルの鉄道小冊子を見ていた。これに、ある程度のめりこんでいた。その男がスマホに目をおとしつつも体をいくらかはすにし、わたしのようすをも見ていたのだとわかったのは、さんざっぱら見られていた、さぐられていたあとのことであった。
 小冊子を右のこめかみにもっていく。この男の姿を視界から消した。男が真正面へと体のむきをかえたのが、太腿の動きからわかった。人を意識して意識し、体のむきをかえる。人の胸内をいらだたせる。こうするのは自分のない人である。形而下でのみ生きるしか能のない人である。フランソワ・ラブレーは公式のカトリック教会を徹底的に揶揄するにあたり、形而下のことを奔放に書いたが(ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』)、この男にはラブレーの遠大な視座などまったくないといえよう。
●女が尻をみせる。
588.2020年5/22 デイリーストア杉並環七通り店。レジについてふりむく。パン棚のほうに女がいるとわかった。18か19くらい。この店で見かけるほかの女らとおなじことをしている。すなわち、パン棚の縁から顔だけをだし、レジにいるわたしの動静をさぐっているのである。わたしがでていかないかぎり、レジに近づいてくることはけっしてない。こんなおもむきがありありとしている。
 ふりかえるかっこうでこの女を見つづけてやった。女はパン棚を見ているようでありながら買う気はまったくないのにちがいない。女は動いた。パン棚をまわりこんで、最前からは90度体のむきをかえた。わたしにジャージの尻を見せるようになった。
●人を眺める男。
587.2020年5/22 外にでてドアの鍵をまわした。その瞬間、ごほっと口中音がした。聞き慣れた音である。地上のどこかからだとわかった。だれからか。よくわからない。
 外階段をおりた。左をとる。阿佐ヶ谷へいくためだ。歩いていく。三叉路の角の家、その玄関ドアを背にして男32?が固まるように立っているとわかった。何もしていない。わたしがくるのを身構えているふうだ。人のことを監視かたがた眺めたいのだろう。この男こそ最前ドアの鍵の音を耳にし、口を鳴らしたのである。
 つと足先のむきをかえた。そこにそんな男がいるとは予想外のことである。男は外でたばこをすいにそこにいるのにちがいない。前にも何度か見かけている。もっともたばこをすうこの家の男がふたりはいるようだ。道行く人を眺めつつ横恣にたばこをすう。スマホを見ながらたばこをすう。精神の沃野に足をつけていない。こういう男がまたいた。高卒男。
●うるさすぎる愚行。
586.2019年4/22 松屋の前をとおった。食べおえてでてきた男が、ごほっと口中音をたてた。
 駅舎へ入っていこうとしているとき、おなじく入っていこうとする女21?が顔だけをわたしにむけて、こちらを見つづけていた。わたしは小手をかざした。
 京浜東北線において女が長椅子にすわっていた。ごほごほっ。そんなふうに思いっきり口中音をたててから立ちあがり、車両隅に立っているわたしのいるほうへ近づいてきた。こちらのドアからおりるにあたって先制攻撃をかましたというわけである。56くらい。しらばっくれた顔をつくっていた。真正の咳のでるような病疾の片影もない顔であった。
 歩道を歩いていく。うしろから自転車がきた。わたしを抜き去りぎわ、ごほごほっとやった。女23くらい。間髪をいれずやりかえした。女はわたしへと顔をむけた。走り去りつつ、ごほっとまたやった。やりかえした。
 男57?スーツ姿は、すれちがいざまごほごほっと口中音をたてた。やりかえすと、またやった。ごほっと。
●高円寺の女子大生?
585.2019年4/22月曜 高円寺駅北口でバスを待つ。わたしの真ん前の女は芳紀20才くらい、じゃがいも色のスカートに紺のジャケット、OLというより、OLふうのかっこうをした女子大生にみえた。
 この女のスマホを見ないように足のむきをかえた。ロータリーの横断歩道で信号待ちをする男65?が、顔だけをこちらにむけてくる。わたしはいそがしく小手をかざしたり、足のむきをかえたりした。
 ごほごほっ。
 その女がそうやった。肩からバッグをさげている。ロゴを見てやる。ブランドものか。髪は寝ぐせのついたようなワンレングスだ。背はひくい。顔ちっちぇー。女がわたしのようすをさぐるのでそんな顔がみえた。
 バスがきた。女は車体の窓を見て、わたしのようすをまたもさぐった。車内では窓際に足を組んですわっていた。豊玉何とかでおりた。
●女がむかってくる。
584.2019年4/20 女が乗りこんできた。両ドアにはさまれた空間のすじむこうにすわった。すわるやいなやスマホである。だが、ややあって顔をあげ、わたしを見にかかった。二三駅後におりるとき、わたしにむかってまっすぐ歩いてきた。これがわかってわたしは、ファイルを盾にした。女21くらいはようやく、あこうとするドアのほうに体をむけた。
●キッチンオリジンの女。
583.2019年4/17 阿佐ヶ谷パールセンターにキッチンオリジンがある。きのうそこにおいて、先にいた女66くらいは、わたしに気づくや体を45度わたしにむけ、商品を見おろしていた。むろん手にとる気などさらさらなく、そうやって、豚汁をすくっているわたしを見つづけていた。店員女と二言三言話しており、常連か準常連のようにみえた。無学の女、無芸術にして無道の女である。そんな高齢であってそのようすであり、人格陶冶性はとっくに失われている。
●バス停の男。
582.2019年4/8 高円寺駅北口にバス停がある。そこでバスを待っていると、うしろに男がついた。45くらい。銀いろまじりのちょびひげをはやしている。体はロータリーのほうにむけているけれども、スマホをのぞきこむ顔をわたしにむけつづけていた。もっとも時折腕組みをほどき顔をあげ、わたしを見ていた。わたしは片足ふくらはぎ叩きをしたり、うしろをふりかえったり、右手左手と交互にパーとやっていた。
●女が花屋へいこうとする。
581.2020年5/10 中野駅への道。車が一台、脇をとおりこす。前方にとまった。だからわたしは道の反対側へ移った。女32?がわたしへと顔をむけ、花屋へむかっている。顔だけはわたしへむけているというわけだ。最前の車の助手席からおりたらしい。男(夫)のいる、どうだといわんばかりの表情だと感じとれた。またこんな女がいた。
 目をあわせないように首をまわし、花屋の角の枝道へと入りこんだ。
 ポーランド生まれのチェスワフ・ミウォシュはこう書いた。「拒絶と屈辱を前にして、連日、思い悩む人は、お金以外に何の圧迫もない西側の住人より人間について知ることが多い。」(『囚われの魂』)